クリミア戦争

クリミア戦争は3つのものを後の世に残しました。その一つが着やすさでは
定評のあるラグラン袖です。




二つ目はフロントにボタンをたくさんつけたニットウェア、カーディガンです。三つ目は看護婦の鑑と言われたナイチンゲールの物語です。
ナイチンゲールは自らの身の危険をも顧みず、国のために戦い傷を負った兵隊に心の安らぎを与え、多くの命を助けてきました。
ひどかった病院の施設を多くの浄財を集めて改善しました。こうした彼女の勇敢な行動が赤十字の設立のきっかけを作ったと言われています。




ラグランも、カーディガンも、負傷兵が、楽に着脱できることを主眼に考えられたものだけに、その機能性は抜群。
戦争時に着る服は動き易さを中心とした機能性が最優先されます。
戦争が終わっても、機能性に優れたものはファッションの世界で生き残っていきます。
良いものはいつまでたっても愛用され、語り継がれていくものです。

連合軍とロシア軍が激突、トルストイも参戦
クリミア戦争は1854年3月28日に始まりました。南下政策を進めるロシアは、当時トルコ領にあったエルサレムの聖地管理問題を口実にオスマン・トルコ帝国に宣戦を布告しました。イギリス、フランスがトルコ側に付き連合軍とロシア軍との戦いという形になりました。
イギリス軍2万、フランス軍3万、トルコ軍6千人の陣容からなる連合軍は、ロシアの軍港・セヴァストポリ要塞を攻略するために、クリミア半島に上陸しました。迎えるロシア軍は5万とも6万人とも言われています。
1854年10月25日、同要塞の南東約10キロメートルの地点バラクラバ(Balaklava)で両軍が激しく衝突、どちらにも多数の戦死者を出しました。ここでは全文の紹介はできませんが、詩人・テニソン(A.L.Tennyson)は
Their's not to make reply, Their's not to reason why,
Their's but to do and die: Into the valley of Death
Rode the six hundred. と詠んでいます。
ロシア軍が立て籠もるセヴアストポリ要塞は、349日間に亘る攻囲戦の後、1855年9月11日に陥落しました。
ロシアの文豪トルストイ(1828-1910)もこの戦いに参戦、「セヴアストポリ物語」という作品を残しています。

「らっきょう袖」「肩抜き袖」の別名も
普通の背広のように身頃と袖がはっきり二つに分かれ、肩先でアームホールに従って縫い合わせられている袖を「セットイン・スリーブ」と言います。これに対してラグラン袖は袖の生地が、襟ぐりまで伸びてきています。したがって、襟ぐりから袖下にかけて斜めの切り替え線が入ります。




セットイン・スリーブよりは機能性に富み、着易いために紳士・婦人のオーバーコートの袖に採用されることが多いようです。また、運動用のスェットスーツ、グランドジャンパーなども、ラグラン袖になったものが、主流をなしています。
職人さんの世界では「らっきょう袖」「肩抜き袖」と呼ばれています。
袖を横から見ると「らっきょう」のような形をしているからです。見頃と袖が連続しているため、どこまでが肩でどこからが袖なのか見分けがつかないので、「肩抜き袖」と表現したのでしょう。直裁的にものを見る職人気質がにじみ出ているようなネーミングです。


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